2011年8月アーカイブ

2011年8月22日

院長日記

無言館と安曇野ちひろ美術館

820日〜21日、数年ぶりに家族5人そろって旅行に行ってきました。目的地は信州上田市にある無言館。きっかけは映画「無言館」

 

以下、映画の解説より。

長野県上田市周りを山々に囲まれた田園地帯の丘の上にひっそりとたたずんでいる小さな美術館無言館」。静まり返った無言館の扉を押すと志を果たすことなく戦場に散った画学生たちの声が聞こえてきます絵描きになりたいと願いながら一枚の画布一冊のスケッチ帖に生命の証をきざみこんで戦地に発った若者たち。・・・

 

この映画もたまたま夫婦で見に行ったのですが、その中で淡々と紹介される残された絵のエピソードを見て行ってみたくなり、日程調整をしかけたのですが・・・、ギリギリまで行けるかどうか分からず、家族みんなが参加できると分かったのが2日前。他の予定を入れておらず、出発直前に「安曇野ちひろ美術館もいいですよ」とツイッターで情報を頂き、計画に加えた次第です。


無言館の入り口を開けると、係の人は居らず、いきなり絵が展示されていました。あるのは絵(一部彫刻もあり)と解説と遺品だけ。2号館もあるが、すべての作品を合わせても数十枚。そのため消化不良にならず、すべての作品にしっかりと目を通すことが出来ました。結構たくさんの見学者がおり、また若い人が多いのはちょっと意外でした。映画「無言館」には現役美大生が協力・出演しており、それも関係しているのかもしれません。出口に職員がおり入場料を払い本や葉書などを買ったのですが、職員数を最小限にするために、出口にしか職員がいないのだと思います。運営には苦労をしているのでしょう。

 

すべての作品にしっかりと目を通すことが出来たのは家族みんなの感想で、夕食を食べながら印象を述べ合いました。

帰ってきて続きを描きたいと、出征ギリギリまで絵を描き続けたのはつらかっただろう

パリへ留学したいという義弟に対し、家や山を売ってでも行かせてあげる、と言っていた

戦争中に描かれたとは思えない

おばあちゃんの絵が一番よかった

妻の裸婦像が何人かあった

手紙の字はみんな達筆

写真はみんな結構イケメン

お父さんへは男子の本懐と言ったが姉へは生きて帰りたいって言っていた」

戦死といっても多くは船が沈められた

銃の暴発で死んだ人は気の毒。でもその妻はその後医師になって今も高知で現役の病院長

いい人がいなくて姉が代わりに、・・その人は今も独身

栄養失調で死ぬって・・・

結核はまだしも脚気で死ぬのは・・・

日本画の小野氏の息子がいた

出身地生年月日がわからないのに絵だけ残っているのはなんでだろ

我が家では話題満載の無言館も、地元での認知度はまだまだのようです。泊まった美ヶ原温泉の宿にも知られていませんでした。

 

翌日訪れた安曇野ちひろ美術館は、広々としたスペース。職員数も多く、あらゆる観光ガイドに載せられている有名な美術館です。見慣れた淡い水彩画がたくさんあり、ちひろの年表などもじっくりと見直すことができました。他の童話画家の絵もたくさん展示されており、子供スペース、絵本スペースなど、小さな子供も一緒に訪れることのできるところです。

 

新たな発見は、60年代初めまではちひろが油絵を描いていたことです。見慣れているせいもあるでしょうが、水彩画の方が断然いいと思いました。

 

印象的な絵や文章はいっぱいありましたが、「わたしがちいさかったときに」のコーナーでの絵「焼け跡を見つめる少年」は切ないものでした。「(被爆し)遠い天国に行ってしまった父母のことはあきらめてしまいました。・・『誰でも大きくなれば父母はいなくなるのであってただぼくのは早く父母を失っただけであるとぼくはいつでも思っている

いろいろな年代の方がいましたが、特に若い人たちがこうした絵を見て、どのような感想をもったのかを知りたいものです。

 

ちひろは1974年に亡くなり、死因は原発性肝癌。この頃にはB型肝炎は検査ができていたので、ちひろの死因はC型肝炎からの肝癌だったと考えられます。今ならインターフェロンなどで肝炎の治療ができ、癌を予防できたかもしれません。存命であれば、今の時代をどのように見、どう描くだろうかと思います。

 

無言館の戦没画学生も同じです。今なら若い人が結核で死ぬことはまずありません。脚気やマラリアなどの感染症も治療できます。そもそも戦争がなければ死ななくてよかった人たちです。

 

今回の旅行で、我が家は行き帰りの時間を含めていろいろな話ができました。無言館、安曇野ちひろ美術館(練馬のちひろ美術館も含め)とも、多くの人に訪れてほしいところです。

2011年8月 8日

院長日記

陸前高田市の送り火の松

被災マツ大文字使わず 「放射能不安で一転(8/6京都新聞)

「東日本大震災の津波で倒れた岩手県陸前高田市の景勝地高田松原のマツを京都に運び五山送り火の大文字に使計画が中止になったことが5日分かったマツの放射能汚染を懸念する声が京都市などに寄せられたためで8日に陸前高田市で燃やす方針とい

この記事は京都新聞だけでなく、朝日、産経、毎日、読売、さらに日経といった全国紙すべてに掲載されました。

 

一方、この報道がされた後、「それに対する京都市の大文字保存会の事務局を務める市文化財保護課に非難が殺到した」(8/8読売新聞)と報道されています。


元はといえば国が放射能について正確な情報を流さなかったから生じた混乱しかし読売新聞の通り、大文字保存会の事務局は市文化財保護課なのですから8月16日の送り火当日に松の木を燃やせたはずです市は放射能リテラシーを高める絶好の機会を逃した、と思いますが、みなさんはどうお考えでしょうか?

2011年8月 7日

院長日記

左京地域連携懇談会(認知症研究会)

昨日は第13回地域連携懇談会、第7回左京医師会認知症研究会でした。テーマは「左京における認知症連携」。2010213にも書いたように、元々は医師・介護懇談会だったのを発展させ、参加者も拡大し、半年毎のこの集まりも最近は200名以上の参加となっています。


今回はたまたま1年半前と同じ認知症を扱っていますが、「左京区の認知症かかりつけ医リスト」が配られ、まだ配布はされていませんが初期の鑑別診断やBPSD発症時の対処を行える「認知症支援医」(国の言うサポート医に相当する)も登録してきています。


担当理事の市田哲郎医師から、取り組みの現状が話された後、「左京における認知症連携について」パネルディスカッションが行われました。地域包括支援センターからは、医師に対し地域から見える活動やスムーズに入院できる体制への要望など、認知症の人と家族の会からは、医療に関する電話相談内容(待ち時間、いい医師の探し方など)、区役所からは「高齢者にやさしい店」の紹介、介護支援専門員会からは、「認知症疾患医療センター」設置へ向けての課題について話されました。


その後、多職種で小グループに分かれて、認知症についてのグループ討論が行われました。私のところでは、認知症対応に苦慮しているデイサービス事業所の現状、家族に認知症だと分かってもらえない大変さ、介護認定が実態に合っていない現状など、日頃の悩みが次々に出され、解決に向けての交流をしました。他のグループでは「左京で統一した認知症評価シートをつくってはどうか?」などの提案も出されていました。医師会へ持ち帰って検討する課題もいくつか出されました。


左京区は「認知症安心サポーター」が5,874人おり、京都市内で人口当たり最も多いとのことです。また地区医師会や多職種でこうした草の根の取り組みが行われており、高齢化の進行とともに今後爆発的に増える認知症への準備も進んできています。


京都府では、今年の10月からは「認知症疾患医療センター」が本格的に動き出すようです。しかし昨日も強調されていましたが、認知症対応はセンターができれば解決する問題ではありません。これまで以上に医療・介護レベルの向上や連携強化が求められます。


私の病院は神経内科医3人、精神科医2人と比較的認知症対応がしやすい医師体制がありますが、BPSD対応ができる精神科病棟はありません。入院では、むしろ認知症を持つ患者の身体疾患治療を求められることが多いです。それぞれの診療所や病院の取り組みがオープンにされ、地域における役割が医療・介護従事者だけでなく、地域住民にも分かるようになることが必要でしょう。


多職種型のこうした懇談会はレベルアップへの動機付け、地域における役割を参加者に強く意識させます。少しアルコールの入った懇親会の場での情報交換も有意義で、普段診ている患者について介護支援専門員や訪問看護師から相談を受けることもよくあります。これからも「顔の見える関係」をしっかりつくり、地域全体のレベルアップ、連携強化に努めたいものです。

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