8月20日〜21日、数年ぶりに家族5人そろって旅行に行ってきました。目的地は信州上田市にある無言館。きっかけは映画「無言館」。
以下、映画の解説より。
長野県上田市、周りを山々に囲まれた田園地帯の丘の上に、ひっそりとたたずんでいる小さな美術館「無言館」。静まり返った「無言館」の扉を押すと、志を果たすことなく戦場に散った画学生たちの声が聞こえてきます。絵描きになりたいと願いながら、一枚の画布、一冊のスケッチ帖に「生命の証」をきざみこんで戦地に発った若者たち。・・・
この映画もたまたま夫婦で見に行ったのですが、その中で淡々と紹介される残された絵のエピソードを見て行ってみたくなり、日程調整をしかけたのですが・・・、ギリギリまで行けるかどうか分からず、家族みんなが参加できると分かったのが2日前。他の予定を入れておらず、出発直前に「安曇野ちひろ美術館もいいですよ」とツイッターで情報を頂き、計画に加えた次第です。
無言館の入り口を開けると、係の人は居らず、いきなり絵が展示されていました。あるのは絵(一部彫刻もあり)と解説と遺品だけ。2号館もあるが、すべての作品を合わせても数十枚。そのため消化不良にならず、すべての作品にしっかりと目を通すことが出来ました。結構たくさんの見学者がおり、また若い人が多いのはちょっと意外でした。映画「無言館」には現役美大生が協力・出演しており、それも関係しているのかもしれません。出口に職員がおり入場料を払い本や葉書などを買ったのですが、職員数を最小限にするために、出口にしか職員がいないのだと思います。運営には苦労をしているのでしょう。
すべての作品にしっかりと目を通すことが出来たのは家族みんなの感想で、夕食を食べながら印象を述べ合いました。
「帰ってきて続きを描きたいと、出征ギリギリまで絵を描き続けたのはつらかっただろう」
「パリへ留学したいという義弟に対し、家や山を売ってでも行かせてあげる、と言っていた」
「戦争中に描かれたとは思えない」
「おばあちゃんの絵が一番よかった」
「妻の裸婦像が何人かあった」
「手紙の字はみんな達筆」
「写真はみんな結構イケメン」
「お父さんへは男子の本懐と言ったが、母、姉へは生きて帰りたいって言っていた」
「戦死といっても多くは船が沈められた」
「銃の暴発で死んだ人は気の毒。でもその妻は、その後医師になって今も高知で現役の病院長」
「いい人がいなくて姉が代わりに、・・その人は今も独身」
「栄養失調で死ぬって・・・」
「結核はまだしも、脚気で死ぬのは・・・」
「日本画の小野氏の息子がいた」
「出身地、生年月日がわからないのに絵だけ残っているのはなんでだろう」
我が家では話題満載の無言館も、地元での認知度はまだまだのようです。泊まった美ヶ原温泉の宿にも知られていませんでした。
翌日訪れた安曇野ちひろ美術館は、広々としたスペース。職員数も多く、あらゆる観光ガイドに載せられている有名な美術館です。見慣れた淡い水彩画がたくさんあり、ちひろの年表などもじっくりと見直すことができました。他の童話画家の絵もたくさん展示されており、子供スペース、絵本スペースなど、小さな子供も一緒に訪れることのできるところです。
新たな発見は、60年代初めまではちひろが油絵を描いていたことです。見慣れているせいもあるでしょうが、水彩画の方が断然いいと思いました。
印象的な絵や文章はいっぱいありましたが、「わたしがちいさかったときに」のコーナーでの絵「焼け跡を見つめる少年」は切ないものでした。「(被爆し)遠い天国に行ってしまった父母のことはあきらめてしまいました。・・『誰でも大きくなれば、父母はいなくなるのであって、ただぼくのは、早く父母を失っただけである』とぼくはいつでも思っている」
いろいろな年代の方がいましたが、特に若い人たちがこうした絵を見て、どのような感想をもったのかを知りたいものです。
ちひろは1974年に亡くなり、死因は原発性肝癌。この頃にはB型肝炎は検査ができていたので、ちひろの死因はC型肝炎からの肝癌だったと考えられます。今ならインターフェロンなどで肝炎の治療ができ、癌を予防できたかもしれません。存命であれば、今の時代をどのように見、どう描くだろうかと思います。
無言館の戦没画学生も同じです。今なら若い人が結核で死ぬことはまずありません。脚気やマラリアなどの感染症も治療できます。そもそも戦争がなければ死ななくてよかった人たちです。
今回の旅行で、我が家は行き帰りの時間を含めていろいろな話ができました。無言館、安曇野ちひろ美術館(練馬のちひろ美術館も含め)とも、多くの人に訪れてほしいところです。
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